Spirit and Nature – the movement of wind

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Review
那須シズノの舞踏[無へのスパイラル]

村上 哲

Spiral Vision between Infinity and Nothingness
Dance Performance by Shizuno Nasu

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無へのスパイラル 那須シズノの舞踏

村上 哲

そのパフォーマンスは、水の様態にも似て、風の姿態へのアナローグでもあった。あるときはたゆたい、あるときは猛り狂う水の舞踏。あるときは静まり、あるときは吹き荒れる風のダンス。静と動とが交錯し、緩と急とが輻輳するなかで、変幻自在にフォルムを変えてゆく「完全なる媒介」としての身体が、のびやかに跳梁するその舞いを支えている。クラシック・バレエで培われた高度な技量と深い素養とを根底に置きながらも、トラディショナルな表現手法を解体し、フォーマルな型から抜け出して脱構築しながら、わが身の投げ出された空間のなかで既存のイディオムを融通無碍に組み立てなおしてゆく。そこには、身体そのものを徹底して純粋なメディアとして存立させることで、自我を超越して忘我の境地へと立ち至っていく、舞踏家としての切迫した潔さがある。個性という彩りを纏う「表現者」としてのスタンスを超えて、無色透明な「媒介者」(=Transparent Medium)となる瞬間。このとき、那須シズノという名のしなやかな身体は、水としての舞踏を踊り、風としてのダンスを舞う。

そしてその演舞のクライマックスに登場する、あの驚嘆すべき身体のスパイラル。超絶技巧に委ねられる美しくも激情に満ちた旋回は、その場に居合わせたあらゆる視覚や既存の価値を、巻き込みながらはじき返し、受け入れながら跳ねつけてゆく。そのとき、「スピン=回転運動」は「スパイラル=螺旋運動」へと鮮やかに変容を遂げ、定められた地点から解き放たれてどこまでも飛翔し続ける。ここではないどこか高みへと現実の空間を変貌させてゆくこの舞踏のスタイルを「スパイラル・ヴィジョン=Spiral Vision」と名づけることができるならば、形状においても意味あいにおいても、那須の華麗なるパフォーマンスこそその名にふさわしいのだろう。そのあくなき旋回の彼方にかいま見えるものは、自らに与えられた人生を真摯な自由さのなかで鮮やかに切り開いてきたこの舞踏家の生き方そのままに、際限なく続けられる「終わりなき舞踏」への憧憬である。無限と無とのはざま(=between Infinity and Nothingness)に漂いゆくものが人間存在であるとするならば、那須の舞踏が造形してゆく時空間は、時の移ろいのなかを生きゆく人間の姿そのものを表徴するものともなる。このスパイラルの運動を通して、内側に秘められた思念を外側へと潔く放出しながら、精神と身体とが深く合一するカタルシスの場へと自らを導き、忘我の境地へと到達することで、そこには無への法悦が呼び起こされてゆく。
ミクロコスモス=身体を媒介として、マクロコスモス=宇宙と交感するかのようなこの瞬間、激情とエクスタシーのスパイラルのうちに、聖と性とが、虚と実とが、存在と不在とが、生と死とが、此岸と彼岸とが、あたかも走馬燈のように立ち現れては消えてゆく。自らの身体そのものを抜き差しならないものと知り、深い孤独のうちに空へと帰すべきものと断じることで、無限に演じられていくかのようなそのパフォーマンスは、無の地平へと昇華される。それはおそらく、生成から消滅へと、そして再びの生へと輪廻するメタファーとして。そして、このスパイラル・ヴィジョンの場に立ち会う者は、大竜巻とともに見知らぬ遠き国へと運び去られたあの『オズの魔法使い』のドロシーのように、遙か彼方のイマジネーションの王国へといざなわれてゆく。

かつてある美術館で、坂口登の絵画展が開催されたときのエピソードから。美しくインスタレーションされた絵画空間を舞台にして、ペインティングと身体のパフォーマンス(舞踏とパントマイム)、そして音楽のコラボレーションが開催された。アートにおける視覚と聴覚、空間と時間へのまなざしのもと、坂口登と那須シズノの二人を中心に5人の競演であった。演奏者として参加した筆者は、あらかじめ幾つかのモティーフによる展開のみを想定し、即興的なインプロヴィゼイションにより感応するスタンスで臨んだ。そして、那須の舞踏と演奏との対話のなかで、ニュートラルな無旋律とりわけホール・トーン・スケール=全音のみで構成される調性のない音像のなかにこそ、その適合性を見出すことになった。色のない無機質な感触のなかに潜む、沈黙と怒濤、静寂と疾風、平安と動乱、構築と解体。深淵の部分において、那須シズノの舞踏フォルムに水のイメージを感じ、風のメタファーを見たのはそのときである。そしてコラボレーションの胎内で直感したものとは、水のなかに漂う自分自身の精神であり、風のなかにたたずむ自らの身体であった。

那須シズノのパフォーマンスが「無の舞踏」であるのならば、坂口登のペインティングは「空の絵画」。抽象と具象とが、意識と無意識とが、意味と無意味とが併存する「空の概念」こそが、徹底したフォーマリズムによって醸成される坂口の絵画の本質である。筆を振りながら絵具の飛び散りゆく飛沫のエクリチュールのなかで、相反するすべての価値が相対化され、その中心には無が充満する。人生のパートナーでもあるこの画家と舞踏家の生み出すアートたちは、鮮やかな対照をなして空間に対峙しながらも、根源的な部分において深く共鳴しあまねく響きあっている。そして、そのカタルシスが時空を超えゆく法悦の一瞬、ふたりの絵画と舞踏は、「空」の領域へと連なり、「無」の世界をかいま見せる。

(むらかみさとし・比較芸術学/美術館キュレーター)

Spiral Vision between Infinity and Nothingness
Dance Performance by Shizuno Nasu

Text by Satoshi Murakami
Curator of Art Museum